鈴　音

　一匹の猫が飼われていた。
　猫の主人は、大学を出ていなかった。もっとも、その仕事は、学歴なぞ関係も必要もない職種だった。なにやら細かいものを細かく管理する細かい仕事だった。朝4時半に家を出、夜は11時過ぎに帰宅した。
　主人は、障害者だった。それに甘えることなく、むしろ健常者よりも勤勉に働いた。それをいいことに、上役どもはこぞって自分の仕事をおしつけ、都合よくこき使った。
「低学歴、役立たずの障害者。そんなおまえでも使ってやっているんだから、有難く思え」
　そんな言葉を吐き捨て、露骨に、遠まわしに脅しつけた。主人が出した退職願は、嘲笑とともに破り捨てられた。障害者を雇っていれば、会社は福祉から多額の助成金が出る。主人は、会社にとって恰好の金蔓だったのだ。

　ある未明、主人は自刃し果てた。猫は見た。
　夫人は会社に出向き、謝罪を要求した。社長及びその腰巾着と取り巻きどもは、
「キチガイが来た」
「帰れ帰れ」
「おまえの夫は勝手に死んだのだ」
「あんな能無しは足手まといだ。くたばって当然だ」
「不服なら、おまえも死ね」
　寄ってたかって辱め、汚物を投げつけた。

　その夜、夫人は部屋を片付け、猫を抱きしめ撫でた。それから主人と同じ刃で果てた。猫は見た。
「おわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――」
と泣くと、三十年間慈しみ養ってくれた夫人の顔や手足を、喉を鳴らしながらなめた。頭や身体をすりつけ、一晩中そばにいた。
　明け方、夫人の姿はもうなかった。代わりに、やたらと膨張した獣がいた。

　夫妻の不幸は、単なる出来事として忘れ去られた。会社にとって、社員の一人や二人を死なせたところで、錆びた画鋲を一つ失くした程度にすぎないのだ。
　ある朝、社内に長い肉塊と丸い肉塊が合わせて二ダースばかり、転がっていた。長いほうには、ウィンナーの飾り切りのような傷が、規則的な間隔で刻み込まれていた。何本もの線が成す裸の傷口から、内臓の入り混じった粘着性の血液がはみ出、膠のようにこびりついていた。首の肉には、咬みちぎったような跡があった。ニクロム線のように飛び出た血管の束は、すでに乾いていた。
　どす黒く変色した十二個の肉だんごが、過日夫を亡くした女を侮辱した連中の頭であるとは、誰にもすぐに察しがついた。社長、その腰巾着、取り巻きどもの顔がへばりついていた。でろり飛び出した目玉をはめ込む手間も不要なほど、わかりやすいパズルだった。
　床や壁、天井にまで飛んだ肉片、臓物の汁は、すでに固まり赤黒くこびりついていた。死ななかった社員達や、勿体つけて出動した警察、喜んで飛んできた報道陣は、この光景を見るなり、げびげびと吐いた。生々しく爛れた腐敗臭に吐物臭が加わり、社屋の隅々までしみこんだ。

　この「単なる出来事」は、あちこちで取り沙汰された。会社が潰れてもなお、事件の真相が追究された。しかし、指紋採取しかできない能無しの警察にはむろん、他の誰にもわからなかった。他人の不幸など、ほんの小さな「単なる出来事」にすぎないのだ。真剣に憂え、考える必要などありはしないのだ。
　犯人などいない。こんな殺し方が、人間にできるわけがない。そんなことすら、人間にはわからない。猫の鈴音が聞こえた者すら、いなかった。

《終》