希 望


 男がいた。どこといって特徴もなければ取り得もない、どこにでも転がっていそうな男が、一人で暮らしていた。
 身内もいなければ友人もいなかった。かといって、男自身、特にそれをどうだと思っているわけでもなかった。
 たぶん仕事もしていたのだろうが、どんな仕事かは本人にもよくわからなかった。いや、どうでもよかったというほうが当たっているだろう。何を見ても同じ色、同じ形、人物も動物も、ただの物体にしか見えなかった。

 ある夜、男の枕元に黒ずくめのものがうずくまった。
「誰だ」
「死神だ」
 男は、じろじろと死神を見た。べつに恐怖は感じなかった。
「なんだよ、畏れ多くも、おれは死神様だぞ。少しは怖がったらどうなんだい」
 死神は威張りくさって男をにらんだ。
「うるせーな、用があんなら、さっさとすませて帰りやがれ。おれは眠いんだ」
「へへん。聞いて驚け。おれの用ってのはなあ、おまえをあの世に連れていくことなのさ」
 死神は、ますます威張って真っ黒い胸を張った。
「ふーん」
 男はつまらなそうにそっぽを向いた。
「そんなら、さっさと連れていけ」
 死神は驚いた。同時にあわてた。そう平然とされては困る。やはり、死神を目の前にすれば、恐れおののくという当然の反応がほしい。どうかまだ殺さないでくれと命乞いする人間の姿を見るのが、死神稼業の醍醐味なのだ。

「これから行くのは、暗い地の果てだぞ。楽しいことなんか何ひとつないんだぞ。苦しみしかないんだぞ。後悔すんなよ。はーっはっはっはっ」
「ふーん」
「どこまで行っても誰にも会えないぞ。深い孤独と絶望しかないんだぞ」
「ふーん」
「夢も希望もない暗闇の中で、永遠の泥沼に沈みこむんだぞ」
「ふーん」
「おまえだって、生きていたいだろう。この世にいれば、楽しいことはいくらでもあるぞ。おまえが死ねば、悲しむやつもいるぞ」
「見てわからんか。おれが死んだところで、べつに困るやつも、悲しむやつもいねーよ」
「なあ、頼むから、少しは怖がってくれよう」
「なんでおれがそんなサービスしなきゃなんねえんだよ」
「ここは、ひとつおれを助けると思ってだな・・・」
「うるせえな。だから、さっさと連れていけと言ってるだろうがよ」
「おまえ、生きているのがそんなに嫌だったら、なんで自殺しないんだ?」
「めんどくせえんだ」
 こんな腑抜けをかっさらったところで、自慢にならないばかりか、死神の沽券に関わる。死神の任務とは、この世に執着している者を無理やり連れ去ることに意義があるのだ。
「死にたくない、まだやりたいことがたくさんある。愛する人々と別れたくない」
 そういう悲嘆、苦痛、絶望を目の当たりに見るのが、死神冥利なのだ。かくして、死神は歯軋りしながら諦めた。
「ちくしょう。もう知らんぞ。おまえなんか、一生生きてやがれってんだ」
「ふん、気が向いたらまた来い」
「二度と来るかよ、ばかやろう」
 そうして、死神は出ていった。
「やれやれ、とうとう死神にまで嫌われちまったぜ」
 男は、再びごろりと横になった。
                           
 それから半年ほどたった。男は相変わらず、ただ生きていた。街は、クリスマスで盛り上がっていたが、男にはそんなもの何の関係もなかった。
 そこへ、一人の天使が通りかかった。
「誰もが暖かいクリスマスを」
「悲しみに沈む人々にも希望の灯火を」
 天使はそう考えていた。そして、無表情で眠っている例の男を見つけた。天使は男に同情し、窓の外からキスを送った。
 自分のいる世界が素晴らしいものだと思えるように。自分をとり囲む人々を愛せるように。自分自身を愛せるように――
 そんな願いを込めて、天使は微笑みとキスを送った。
 男は、目を覚ました。清々しい気持ちが満ちていた。人のために役立つことを何かやってみたい、いや、やれると思った。幸せになりたい、いや、なってみせると思った。今日はどんな楽しいことが待っているのだろう、どんな人々と会えるのだろう。
 そう考えただけで、あふれる希望に心が踊り、しみじみと幸福を感じた。

 とたんに、いつぞやの死神がやってきて、この世に対する執着に縛られ必死でもがく男を、喜んで連れ去った。

《終》