幻 の 笑 顔


　中学一年の頃の副担任は、Ｗ先生といった。しかし、何の教科担当だったかは、覚えていない。授業を受けたこともなかった。時折、正担任の具合が悪い時などに教室に現れ、必要なことを説明しては消える人だった。
　この先生は、まず笑わない人だった。かといって、特別厳格というわけでもない。驚きもしなければ、不満そうな顔もしない。とにかく感情を表さない人だった。紺色の教員服なるものを着、かっちりとネクタイを締めていた。（ネクタイを締めている先生など、他にはいなかった）今にして思えば、ずいぶん生真面目な先生だったようだ。

　学校祭の準備で、放課後残っていたある日、クラスの生徒二人が、取っ組み合いのけんかを始めた。原因は定かでない。おもしろがって見物する連中もいれば、止めに入る人もいた。
「ちょっとぉ！　やめてよ、制服汚れるよ」
「スカートのヒダ、壊れるってば」
「いいかげんにしてよっ！　やるんなら、ハダカでやんな」
「あんた、パンツ見えるよ」
　などなど、少々異様な言葉が飛び交う中、やって来たのが副担のＷ先生だった。
「何やってる」
　先生は、ぐるり集まった生徒達をかき分けると、このタイトルマッチを見下ろした。
　スカートをはいた二人は、ブラウスがはだけたまま床に転がり、お互いの服や腕をつかんでいた。
　スカートがめくれて露わになった下着を一瞥するなり、先生はその生徒の顔を見つめた。そして、真面目な声で言った。
「男か」
　言われたほうも、これまた大真面目に答えた。
「男です」
　先生は、もう一人の顔も見た。
「おまえもか」
「はい」
　学校祭のクラス展示物として、私達は被服の歴史を調べていた。そのうちに、ふざけて男女の制服を取り替えてみようということになったのである。
　Ｗ先生は、けんかした二人を含む六人の女装オトコと、同数の男装オンナを目の当たりにしたのだった。
　刈り上げ、埃っぽい顔の女子もどき、長髪、キティーちゃんの腕時計をつけた偽男子、合計十二人が、ぞろぞろと正体を白状した。

　翌朝、正担任のＫ先生は、教室に入ってみんなの顔を見るなり、大口開けて笑いだした。
「Ｗ先生、大笑いしてたぞ」
　これは驚いた。あの先生が笑うなんて。疑わしそうな生徒達を見て、Ｋ先生は、念を押すように言った。
「ほんとだぞ。『一年生は何やらかすか、わからん』ってな」

　以来、私達は、Ｗ先生が笑うのを心待ちにするようになった。
　ところが、翌年の三月、先生は転勤になり、その望みもとうとう叶わずじまいになってしまったのである。
　しかし、Ｗ先生の幻の笑顔は、卒業するまで時おり話題になった。

　         　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　《了》